「○○した方がいい」という “忠告” はしない方がいいのか? ~ ストレスなんて絶対溜めないんだからね!って話 ~

公開日: 

「赤信号は渡らない方がいい」と他人にわざわざ忠告する人もいないだろう。言われた方もなんと応えたらいいか対応に困る。だってあまりにも当たり前のことだからだ。「赤信号」の例は極端だとしても、忠告する側の意識としては “相手(忠告される側)がその事を知らない” と思っているからこそ忠告しているわけだ。では忠告する側の人は次のような言葉を知っているのだろうか。

忠告はめったに歓迎されない。そして、それを最も必要とする人が、それを最も好まない。

イギリスの政治家、チェスターフィールドの言葉である。どんな場面で出た言葉なのかは知らないが、僕としては「人との接し方」や「(他人からの)忠告の捉え方」として参考にしている。人間は基本的に他人からあ~だこ~だ言われるのが嫌なのだ。忠告を嫌う理由の一つとして「分かっていることを言われる」ことが挙げられると思う。

親「早く宿題やりなさい!」
子「分かってるよ!」(うるさいなぁ、今やろうと思ってたのに・・・)

コレなどはその典型だ。「あーしろ、こーしろ」と言うだけならこれほど “楽” なことはない。問題は “どうやって自発的にやらせるか” なんだけど。子育てもそうだし、部下や後輩の教育でも同じ。仮に相手が渋々言う通りにしたとしても、毎回毎回言わなければならないのでは言う方も疲れてしまう。お互いに辛い・・・

自分が誰かに忠告するときは言い方に気を付ける。例えば「○○した方がいいかもしれないね」のようにやんわり伝えてみたり。場面によっては「こうするとどんなメリットがあるか」、逆に「やらなければどんなデメリットがあるか」を説明する。しかし自分の忠告によって相手が “変わる” ことなど期待してはいけない。変わらなかったときに自分のストレスになるからだ。しかも人間というヤツはすぐに結果を求めてしまう生き物だからなおさらである。

他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる。

コチラはカナダの精神科医、エリック・バーンの言葉。この言葉が真実かどうかというより “心の持ちよう” として捉えた方が良さそうだ。「変わったらラッキー」ぐらいに思っていればストレスもためずに済むだろう。ただし「相手が変わるまでに自分が行った施策」との費用対効果については考えるべきだが。できれば手順は少なく、効率よく相手を変えられるなら、それに越したことはない。特に仕事では「変わってもらわなければコチラが困る」場面があるからだ。

仕事以外の場面、例えば相談を受けた友人に何らかのアドバイスをするような場合なら「変わったらラッキー」でいいだろう。そもそも相談事など悩み事を話した時点で本人も大方スッキリしているものだ。むしろアドバイスなどせず “同意” だけでいいかもしれない。そもそも本気で “変わりたい” と思っているなら相談せずとも行動してるはず。だいたいアドバイスしたところで「他人の人生まで責任など持てない」し、「人生は全て自己責任」だ(※ただし「生まれの不幸」は考慮するべきだろう)。ここで上述の言葉の後半部分「自分と未来は変えられる」が大事になってくる。

人から忠告されたり、本を読んだり、映画を見たり、何らかの “心の刺激” があった時、その場だけの感動で終わるのか、それともその後の人生を変えることができるかは結局は「受け手次第」なのである。忠告したって聞く人は聞くし、聞かない人は聞かない。だから相手が変わらないことにストレスを感じる必要など無い。忠告するなら “善意” でするべき。見返りなど求めてはいけない。どうしても変わって欲しければまず「自分と未来は変えられる」ことを教えてあげるべきである。

さて、自分が忠告する立場としてこのような心構えを持つのは良いとして、忠告される側になった場合はどうだろうか。

忠告してくる人が皆このような考えを持っていれば良いが、冒頭の例のように「赤信号は渡らない方がいい」的なことを平然と言ってのける人もいる。つまり “言いたいだけ” の人間である。人にアドバイスをすることによって自分の優位性を保とうとしているのかもしれないが、”器が小さい” ことを自覚するべきである。皆が皆そういうわけではないだろうが・・・

このような場合はとりあえず「へぇ」とだけ言ってあげれば良い。わざわざ相手を論破するのも面倒だし角が立つ。気遣える余裕があれば、話したい(自慢?)のだから話だけはさせてあげよう。どうせ話をさせるなら「タメになる話」でもしてもらった方がマシである。大概の場合 “精神論” 的な話をしたがるからもっと具体的な、テクニカルな話に持っていくのも良い。ひょっとすると自分が経験したことのない話を聞けるかもしれないからである。これならお互いにメリットがある。

中には本当に “善意” で言っている人もいるかもしれない。ただ「あ、それもう知ってます」となってしまう場合は残念でならない。少なくとも相手は「良かれと思って」言っているわけだから当然協力的であるのが幸いだ。この場合は「さらなる改善案」を模索していくのが良いだろう。見つかればラッキーだし、こちらの提案の方が優れていれば相手もそれ以上のことは言えないのだからダラダラと付き合う必要も無い。あとはそれを実行して結果を見せれば良いのである。要はこちらが「相手のコントロール下にいない」、もしくはこちらの問題に対して「相手の手に負えない状態」に持っていけばそれ以上の忠告などできないはずである。

「じゃ、お前がやれよ!」と言ってしまうのは簡単だがそれは最終手段とした方が良いだろう。一つ一つの忠告に対してそれをやってしまうと “善意の忠告” までしてもらえなくなるからだ。一度の人生で経験できる事は限られている以上、人の経験を知ることは大事だし、中には「腑に落ちる」ような忠告をしてくれる可能性もゼロでは無いだろう。全否定は自分にとってもデメリットが多い。「どうせなら自分にとってプラスになる」方向にもっていけば良いのである。

“忠告” にまつわるストレス改善策はこんなところだろうか。

「人は何のために生きているのか?」

生物として「種の保存」は本能的に行っているだろう。そのために「他者に自分の知識を与える」のは理解できる。”生き残る知恵” を共有してこそ種の繁栄が可能になるのだから。そう考えれば “忠告” という行動は自然の行為と言える。しかし日常生活において何もそこまで考えることは無い。要は人間関係だ。どうせなら「悪い人間関係」より「より良い人間関係」を作った方がいいよねって話で “ふわっと” まとめておくことにする。

[milliard]
  • サイト内検索

  • カテゴリ


  • スポンサードリンク



PAGE TOP ↑